雲ならべの肖像

だも

 指をさす。その先に色を広げる。
 指先からうまれた白色は、カンバスの上に濃淡をつけていく。
 どこへいくでもなく、なにを求めるでもなく、かたまって、ふくらんで、散って、ぼやけて、乾けば水を継ぎ足して、またはじめからくりかえす。絵筆と指が一体になっているあいだ、夢にまどわされる睡眠よりもずっとすべてを忘れられて、自分の身体が指先一点だけになったような気持ちになる。自在に暗闇を飛びまわっていけるのだ。
 この時間に終わりを告げるのは、無機質なアラーム音。
 指でささえた筆が、カンバスの端をかいた。
 にぎやかしい周囲の音が戻ってくる。
 暖房にかき混ぜられたこのにおいは、ハンバーガーだ。ああ、お腹がすいたなあ。うでが重いけれど、アラームを止めなくちゃ……。
「あ、たまき。もう帰るの? いま、男たちが、ピザ買いにいってるよ」
「季節限定だよ~」
 近くにいたグループの子たちが、声をかけてきた。
 ここは大学のサークル棟。美術サークルという名目の部屋は、それにふさわしく、広いテーブルと画材とが並んでいて、それぞれが活動に励みながらも、和気藹々としている。といっても、いわゆる美術的な活動をしている人はごくわずかだけれど。そのグループは何十色もある色鉛筆セットを囲んで、細密な塗り絵に取り組んでいた。
「わたしはいいや。これからバイトだから」
 断りながら、パレットを布でぬぐい、絵筆やイーゼルを片づけていく。時計を確認すると、もう八時になろうとしていた。
「今日も? ねえ、何のバイト?」
「夜のバイト」
 おどけるようにいってみせると、彼女たちは「あやしい~」と声をそろえた。いつものやりとりなのだ。
「あ、これは? 見た?」
 そのときふと、近くにいた一人が、こちらにスマホを向けてきた。画面には、スマホで撮ったまんまの、縦長の写真。うすい水色の冬の空をバックに、塔のように縦長い、三角の黒い雲が写っている。その下にはシェア数と評価数が、それぞれ三桁ならんでいた。
「うん。昼間、まわってきたから」
「たまきも写真とか参考にするんだ。雲の絵ばっかり描いてるもんね」
「べつに、参考にしてるわけじゃ……」
 いいかけたとき、別の子がそのスマホを取りあげた。
「あー、このアカウントか。空とか雲の写真ばっかりの。キャプションもポエム」
「でも最近、めちゃ雲の精度高くない? 好きなんだけど」
「ほんと、よく見つけるよね」
「昨日のこれなんてさ、もう、まんまハートだし」
 他の子も割りこんできて、彼女たちで盛り上がりはじめてしまった。
 後かたづけをすませたわたしは、小さく挨拶をして、部屋を出た。手に持った三十号のカンバスは、となりの狭い倉庫へ持っていく。
「雲の精度、か……」
 暗がりのなか、自分の絵をじっと見おろす。黒塗りにした下地に、白だけの絵の具を引き重ねたものは、たしかに雲をイメージしている。でもそれは、なにかの形を模しているわけではない。すじ雲、わた雲、おぼろ雲……高度も季節も関係なく、気分で絵筆を走らせているだけだ。
 がたん、と棚のフックに吊りさげて、部屋を出た。
 そうだ、べつに、何かを意識して描いているわけではないのだ。
 冷たい風と熱い人混みをかきわけて、ひとりバス通りからはずれて歩道橋をかけあがる。手に持った黒いストールを身体に巻きつけ、もう一段、空中へ足を踏み出す。その見えない階段は、はるか上空へとつづいている。

 小学生のときはお絵かき教室、中学では塾、高校になると周りと同じ塾に通いはじめたこともあり家庭教師だとごまかしてきた。バイトは大学からだけれど、これがいちばんしっくりくる。一応報酬も出るし、頭の中ではずっと仕事と呼んでいた。八歳の頃から続けている、夜だけの仕事。
 地上から約三〇キロ上空は、真っ暗で、足もとのネオンにはまぶしさも感じない。この光景に、感慨もなくなってしまったな、と思う。見慣れるとそんなものだろうか。
「名人の雲、また話題になってましたね。見ました?」
 ふと耳に入ったのは、仕事仲間の声だった。
 わたしに当てられたものではない。すぐに、別の声がつづく。
「見ました、見ました。すごいですよね」
「あえて黒い雲で勝負してくるとはね」
「冬ならでは、ですよね」
 まるで同じテーブルについて話をしている話し方だけれど、彼ら同士も、わたしとも、数キロ以上離れている。