パトリック・ソローの素晴らしき夜
千葉まりお
一
私は夜を所有している。
ブラウニーフォート刑務所を退職した日に、彼から贈られたものだ。
縦二十インチ、幅二十インチ、厚さ二インチ。部屋の飾りにちょうどいい大きさだ。
月は含まれていなかったが星の一つ一つが明るく輝いていたので物足りなさは感じなかった。強く揺さぶれば一面に流星の雨を降らすこともできるそうだが、やろうとは思わない。力の加減を間違えれば夜から星が全て流れてしまい、あとには闇だけが残るのではないかと怖かったからだ――私は、何よりも闇を恐れている。
赤ん坊の頃、目の周りについた引っかき傷から悪い菌が体内に入り、高熱に苦しめられたことがある。熱は二日間私の体内に留まり、私の両目の視力と共に去っていった。私は失明したのだ。夏の空のように青く美しいと評判だった私の瞳は、真っ白に変色してしまっていた。この時の恐怖は赤ん坊だった私の脳に張り付き、今もまだ離れないでいる。
祖母が正しい対処をしなければ私の視力は今も回復していなかっただろうし、こうして美しい夜を見つめることも、彼と出会うこともなかっただろう。縁とは奇妙なものだ。
私はL・スミス社製の高級な額縁に夜を嵌め、寝室の壁にしっかりとネジ止めした。
これは本物の夜なのだと妻に打ち明けると、彼女は「パットったら」と目を回した。
「これはトリックアートよ。ビーズが混じった特別なインクをガラスで挟んでいるの。ミルクレープみたいにインクとガラスを交互に重ねているから遠近感が生まれて、本物の星空みたいに見えるのね。昔、デパートで同じ物を見たことがあるわ。でもがっかりしないでね、私のハニーアイ。本物じゃないにしても素敵なことに変わりはないわ」
星々が平時よりも強く瞬いてみせたのは妻の言葉に対する抗議だったのだろう。だが妻は「ほらご覧なさい」と自信たっぷりに夜を指差し「本物の星はこんなにうるさく光らないでしょ? 中にLEDが入ってるんだわ」と軽快に笑ったのだった。
二
彼と出会ったのは一九七六年の冬の始め。私は二十二歳。看守になってから三カ月を過ぎ、制服を自分の皮膚のように感じ始めている頃だった。
大抵の刑務所と同じように、ブラウニーフォート刑務所にも囚人の職業訓練プログラムがあった。人気が高い順に電気技士、配管技士、事務経理と続いて、最も不人気だったのが家具職人の訓練プログラム。私はその見張りを担当していた。
参加者はいつも片手で数えられる程度しかおらず、その日も木工所にいたのは指導役の家具職人とスミスという内気な囚人と私、そして身長が私の腰までしかない赤毛の小男だけだった。机と椅子の高さがあわないため小男は椅子の上に立ち、偉そうに腕を組んで職人の「正しい椅子の作り方」の話しに耳を傾けていた。
私は囚人全員の顔を覚えていたが、彼を目にするのは初めてだった。新しい囚人が入ったとも、入院していた囚人が戻ってきたとも聞いていなかったので、私は妙だと思った。
私は彼に近づいて声をかけようとしたが、小男が突然「四流職人め、我慢ならん!」と怒鳴って両手を広げたので、驚いて言葉を飲み込んでしまった。
小男は机に並んでいた木材を手に取ると、定規で測ったり印をつけたりはせずに鋸を引き始めた。私は自分が看守であることを忘れて彼の技に魅入った。躍動の火花が小男の腕や指先で絶えることなく迸っていた。小男は優雅に鋸を引き、華麗に金槌を振るい、最愛の人を愛撫するようにヤスリを滑らせ、粗悪な木材を世にも美しい椅子に作り変えてみせた。しかも信じがたいことに、小男はそれを秒針が一周する間におこなったのだ。
「これが椅子だ!」小男は家具職人に見せつけるように椅子を掲げたが、家具職人もスミスも小男に顔を向けようともせず、完全に無視していたので私は呆気にとられた。
「パトリック・ソロー。俺がお前なら声は胸に留めておくだろう。狂ったと思われたくはないからな」小男は「返事がないのはいつものこと」と持ち上げていた椅子を下ろし、私に顔を向けた。年は四十を少し越えたくらいで、品が良いとは言えない面構えだった。酒場で歌手が陰気なバラードでも歌おうものならビール瓶を投げつける類の顔だ。
「婆さんに感謝しないとな。彼女がヴィヴィアンの蜂蜜を塗らなかったら、あのチビに盗まれるのは瞳の色だけじゃ済まなかっただろうよ。あの泥棒は赤ん坊を毒爪で引っ掻いて熱を出させ、潤んでふやけた目玉から瞳の色を剥がし取っていくのさ。すばしっこくてとても捕まえられん。あいつに追いつけるのは流れ星くらいのもんだ。今頃お前から盗んだ青で羽根を染めてご満悦だろうよ。まぁ、そんなことは今更どうでもいいか。結果だけで言えばお前は得をしてるんだからな。その目のおかげで俺の姿を見ることができるんだ」
どんな家にもその家の者だけが語り継ぐ不思議な話しがあるものだが、ソロー家の不思議な話しとは私の目にまつわるものだった。