グランド・マザーズ

古戸マチコ

 ――ああ、太陽が消えてしまう。
 私は沈み行く夕日に向かって走りながら、ぜえはあと息を揺らした。冬の夕方、駅前広場。いつも通り仕事を定時で切り上げて、たった一駅電車に乗って降りたところであたりはすっかり薄暮である。早い。早すぎるよ夕暮れ。せめてうちに着くまで待っててよ。
 焦りでうっすら泣きたい気持ちになりながら、鞄を抱えて下宿先までひた走る。
 こうして帰宅ダッシュをするようになって気がついたのだけど、いい大人が必死になって走っていると、道行く人は何があったのかという顔でこちらを見るんだな。そりゃそうだ、バスが目の前で発車しそうだとか、わかりやすい理由でもない限り、ふつうのオフィスカジュアルを着た成人女性はパンプスで全力疾走しない。それも特に何もなさそうな、ひっそりとした住宅街に向かってなんて。
 しかし私は走らねばならないのである。息が切れて横腹も痛いけど、遅れると面倒なことになるのだ。急げ、急げと自分を鼓舞してなんとか辿り着いたのは、建売住宅ばかりが並ぶ地域で明らかに浮いている、鬱蒼とした緑の庭を鉄格子のような門柵で押し込めた洋館である。ここが私の下宿先だ。
「ああー……」
 鳴ってる、と口にするでもなく洩らしてしまう。近寄ると自動で点く照明に迎えられながら、私はため息で呼吸を整えると、再び駆け足で中に入った。苔に縁取られた煉瓦の小径を踏んで行けば、木々の間から鋭角に尖った赤屋根が現われる。丁寧に整えられた緑に埋もれる築六十年の洋館は、時々雑誌から写真を撮らせてくれと頼まれるほど見栄えが良い。衛星アンテナが飛び出してるのだけは、ちょっとなんとかした方がいいと思うけど。
 外から見る限り、家の中にはまだ明かりが灯っていない。それなのにご近所に響きそうな勢いで鳴り響くのは、目覚まし時計のアラームだ。ピピピピ、ジリリリ。そんな定番の音から「おはよう、時間ですよ」だの「おい、起きろよ……起きないと」以下略といった、甘いボイスで囁くものまで一緒くたに騒いでいる。
 私はもう一度「ああ……」と頭を落としながら、合鍵で中に入った。
「ただいまあ」
 と言ったのさえ、目覚ましにかき消されてしまう。耳の周りの空気が震えるくらいの音量だ。私はパンプスを蹴り落とすように脱ぎ投げて、すぐ前方にある階段を一段飛ばしに駆け上がる。音は大きくなるばかり。明かりをひとつひとつ点けながら、とにかく暗い家の中を順に明るく照らしていくと、最深部と言える一部屋に辿り着く。
「ハナさん、入るよ!」
 鍵の掛かっていないそこを開けると、多種多様なアラームがいっそう耳に痛くなった。明かりをつける。そこらじゅうに、三十四個の目覚まし時計が転がって、物によってはぐるぐるとだだをこねるように回転している。私はやかましさでくしゃくしゃになった顔で、ひとつずつスイッチを止めていった。ここに来た初めのうちは、それぞれの時計のどこを押せば音が止まるかわからなくてパニックになりかけていたが、今となっては黙々と敵の急所をつまんで、ひねって、叩いていける。心を無にして機械的にすべてのスイッチを切ると、急に静かになった空気が耳の奥をきぃんと鳴らした。
 さて。
 ここからが本番である。
 私は窓のない部屋の壁際に横たわる、夜よりもさらに暗い、漆黒の棺に目をやった。
 ――ひつぎ。棺おけ。つまり死体を入れるあれである。それも洋風の、ゲームで死んだらアイコンが自動的に変換されるようなやつ。
 だけど、この中に入っているのは死んだ人間なんかじゃない。
 私は、よっこいせと重いふたを持ち上げた。
 赤いビロード敷きの内側にはご遺体が――じゃない。白い薔薇の花とかそういうのも入ってない。代わりにあるのはLEDのミニランプに文庫本、タブレット機器、スマートフォン。ビロードを切り取った一角には電気コンセントまでついている。あとはペットボトルの水とか、お菓子とか。
 そんないつ見ても便利そうな棺おけの中に横たわり、すうすう寝息を立てているのがこの家の持ち主であり、私の大家さんである。
 少し青ざめた白い肌。やわらかく渦を巻いて流れる金髪。作り物のように整った鼻筋と、目を閉じていてもわかる長い睫毛……。何度見てもハッと息を呑むほどの美少女だ。
「……ハナさーん。起きて、時間ですよー」
 美しいのはあたりまえである。彼女は御年四百ウン歳、不老不死の吸血鬼なのだから。