砂の街

渡波みずき

 僕は二度、 李亜夢 イアム に命を救われたことがある。一度目は、高校一年生のときだ。
 帰宅ラッシュが始まる寸前、ひともまばらな乗換駅のホームで僕は、通過列車の車窓に自分の顔が映るのを見た。警笛はけたたましく鳴り渡り、列車は僕の前髪やまつげを吹き上げながら、鼻先を通り過ぎる。
 窓に映りこむ何の特徴もない冴えない男子高校生は、まるで、たったいま目覚めたかのような顔をして僕を見ていた。
 列車は駅を離れていく。こちらへ駆け寄ってくる駅員の姿を目の端に捉えながら、僕は、さっきどこかで耳にした歌の続きが聴きたいと、ただそれだけを考えていた。

 李亜夢は、サブカルを象徴するシンガーソングライターだ。未成年であることを理由に、決してテレビ番組では歌わない。よく、機械で声をいじっているからだと揶揄されるが、もしそうだとしても、彼女の曲のよさはいくらも損なわれないだろう。
 アッシュブロンドに、ピンクと紺と水色のメッシュの入った長髪がトレンドマークで、小作りの整った顔も人気の一因だ。曲ごとに違ったデザインのカラーコンタクトをつけ、タトゥーシールでからだを飾る李亜夢は、とても大人びた表情をしている。
 スマートフォンの音楽アプリを立ち上げると、アルバムアートワーク一覧が表示される。李亜夢の『おんなのこのうた』をタップし、音量を最大にする。
 鼓膜を揺らすはずの音は、今日もなかった。聞こえるのは、耳鳴りだけだ。
 六月も半ばになれば、日の出は早い。外は薄明るかった。リビングの掃きだし窓から、庭をざっと点検する。家庭菜園にも、母さんの墓にも、異状はない。
 本日の三浦半島の天気は、曇りがちの晴れ。上空をよぎっていく機影が見える。あれは、 横須賀 よこすか 基地から飛び立った米軍機か、それともどこかへ救援活動にむかう自衛隊機か。
 耳を襲うはずの轟音はなく、吐息の音すら聞こえない静けさに耳が痛くなる。三日経つのに、いっこうにこの違和感には慣れない。